八幡城の合戦=稲葉貞通と遠藤慶隆の戦い
(関ヶ原合戦の前哨戦) (1600年9月1日〜3日)
「八幡城ものがたり」(発行:八幡町)より 五人塚(愛宕公園)
(天正16=1588年に)左遷された遠藤慶隆は、郡上復帰を狙っていた。当時、美濃は、東西接触の地で複雑な動きを示していた。岐阜城の織田秀信は西軍(豊臣方)に属し、両遠藤に西軍に参加するのを勧めた。稲葉貞通も西軍に属し、家康の西上を阻止する目的で犬山城へ入った。
両遠藤は二つに分かれ胤基の子の小八郎胤直は西軍に属し、上ヶ根(白川町)に陣を構えたが、慶隆は家臣納得の上、東軍(徳川方)に属することを決めた。これによって慶隆は、小原が要害の地に適当でないため、金森氏に頼み、飛騨のうち一城を借り受ける話を進めた。こうして慶隆は身辺を固めた上、家康に美濃の諸事情を書き上げ、八幡城奪回の許可を得るために、家康の所へ使者を立てた。
使者に立った村山三右衛門は、夜を日に継ぎ江戸へ走り、金森長近(法印)に慶隆の書状を差し上げ、長近から家康に御覧に入れた。家康は、慶隆が小身の領主でありながら美濃の国中を敵に廻して家康に味方したことを喜び、金森長近に、慶隆へ手勢を貸すように命じ、使者の三右衛門には、当座の褒美として秋広の名刀を与えた。
金森長近から急飛脚で慶隆の許へ書状が届いた。それは慶長5年(1600)9月1日を期して、金森勢は坂本口から、家臣の池田図書・湯浅道伴は五町村山から、慶隆は堀越峠の三方から攻め寄せ、合図の狼煙を上げ、一時に八幡城を攻める、という文面のものであった。
慶隆は飛騨の佐見(白川町)のうち吉田というところに掻き上げの砦(盛り土・石を積む)を築き、坂下という所に押えを置いて、7,8月の2ヶ月、時期の熟するのを待った。
8月28日に17騎の士の他、400余人の軍勢を率いて、郡上八幡城を目指して佐見吉田を出発した。無論、留守居の兵士を置き、上ヶ根の小八郎にさとられないように隠密の行動をとったことであろう。田島舟渡(加茂郡白川町)に宿陣、下原ー広瀬ー中原ー祖師野ー麻ヶ滝(以上益田郡金山町)の難所を越え郡上郡法師丸(和良村)に宿陣した。一説には祖師野から一隊は麻ヶ滝を通り下洞(和良村)を進んで野尻(和良村)に宿陣し、一隊は祖師野から戸川村(金山町)の間道を通って法師丸へ出て同所で宿陣したといわれる。いずれにしても、2隊に分かれて進んだことが考えられるという。(遠藤記)。
9月1日、法師丸を出て中ノ保村口洞楢ヶ峠(八幡町美山)へかかると川尻権平が鉄砲を打ちかけてきたが、これを追い払い、安久田村へ出て、名広谷を下り愛宕に陣を敷いた。家臣が穀見,中野村へ廻り民家へ火をかけ中山城の忠次郎の動向を探った。
金森可重(ありしげ)は久角(くすみ)村(明方村大久須見)から寒水(明方村)を経て杉尾佐山(明方村)から少し遅れて小野村滝山(八幡町小野)へ到達した。慶隆は赤谷村の家に放火して合図をし、金森勢と呼応して八幡城を攻めた。稲葉勢が打ちかける鉄砲の下を掻い潜り宮ヶ瀬を渡り、一の門を破り二の門まで進んだが、鉄砲が激しく打ち込まれて進むことが出来なかった。
滝山から間道を進んで来た金森勢は、二の曲輪(くるわ)へ攻め入った遠藤勢と一時同士討ちとなった。やがて両者一致して二の丸の攻撃を開始したが中々進めなかった。一方、搦め手では、金森勢は苦戦して多くの戦死者を出した。
八幡城には、貞通の末子修理亮と家老の稲葉土佐他20士・浪人・百姓・町人が数多く籠っていた。(遠藤記)。合戦の有様を見た諸国行脚の六部が犬山の貞通に知らせた。勿論、城中からも急使は立ったであろうし、中山城からも急使は出たであろう。
翌2日、安養寺末の福寿坊(元天台宗恩善寺)という僧が竹に傘を付けて城中より和睦の使者に立ち、「稲葉氏も東軍に味方することになったからその陣をお引きなされ」と申し、人質として家老稲葉土佐の子・與市郎を差し出すことによって和睦がなった。慶隆が愛宕へ陣を引いたところへ、村山三右衛門が、家康の判物(朱印状)を持参して慶隆に差し出した。それによると、今度の忠節により郡上郡一円を知行することを許すというものであった。
3日午前5時ごろ霧の深い朝であった。犬山城にいた貞通は急を聞いて駆けつけ、中山城の忠次郎の配下と一柳城の典通の手勢500余人と合わせて、4千余騎の軍勢で慶隆の愛宕の陣所を急襲した。和約の成立直後であったため、まさか稲葉勢が攻め寄せてくるとは予想もしていなかった遠藤勢は、不意をつかれ懸命に防戦したが、主だった部下を失った。慶隆はかろうじて寺畑から吉田川を渡り小野滝山の金森の陣所へ逃げ込んだ。遠藤の陣所を落した貞通の軍は意気揚々として城中へ入った。
その夜(一説に4日朝)、貞通は樽と肴を持って和睦を申し入れてきた。そして家康に対して従順の意を表するために髪を剃ったという。こうして八幡城の戦いは終わり、慶隆は東美濃へ戻り、さる5月から上ヶ根に楯籠っている小八郎胤直を降伏させた。徳川秀忠が信州下諏訪(長野県)まで出馬しているため、慶隆は池戸所助を使者に立て委細を注進した。秀忠からは感状が下された。その後、家康・秀忠が赤坂表へ出陣の時、慶隆と弟助次郎(慶胤)はお目見えをして杉原紙一箱を献上した。関ヶ原合戦では家康・秀忠のお供をして旗本を勤めた。