郡上高校の同級生の曽我正幸君への「弔辞」(友人代表:鷲見隆夫)
「弔 辞」
正幸君、君が亡くなったなんて誰も信じません。元旦の昼過ぎ、ときゑさんから電話があり、君が亡くなった事を知りました。31日に会った時、「正幸君」と声をかけると目を開きうなずいていました。息は苦しそうでしたが「今日は大晦日やで、来年も頑張ろうな」と声をかけると頷きました。手の甲を握って顔を見たら目をつぶって頷くだけでした。
病室を出てから「しまったなあ」と悔やまれました。こんなに頑張った君に「頑張れ」なんて言わん方がよかった。君はどれだけ悔しい思いでこの言葉を聞いたことだろう。「よう頑張ったなあ。もう頑張らんでもええ、今までよう頑張ってきたなあ」そう言えばよかった、今つくづく思います。
君はいつもひたむきに、そして寡黙に、そして目標を持って生きた人でした。
郡上高校の、あの汚い寄宿舎、相撲部で土まみれになったまわし姿、生徒会活動で朴とつと意見を言う君、本当に存在感を、人間性を回りに伝えられる人でした。
専修大学では平和運動や民主化運動を通して、世の中、社会の変革に燃えていました。70年代は、本当に誰しもが日本が良い方向に行く、そう信じていました。
白鳥のアパートの暗い部屋で油絵や文芸誌に囲まれ、ひたすらに「ガリ版」に向かっていましたね。タイプを覚え、詩集や同人誌を編集していました。きっと君は大学で学んだ「生きる文化」を白鳥に根付かせたかったのでしょう。
農協を辞めたとき、「百姓のためには栽培技術を自信を持って指導する人が必要なんや」、君はそう言って専業農家になりました。農業委員になったのも、白鳥のこれからの農業を考え、農業では食っていけない現実を何とかしたかったのでしょう。
大島の作業場へ行くと、ホウレンソウの赤い根っこをふき取り、ハサミで一本づつ切り揃える気の遠くなるような作業でしたが、まるで絵筆を洗うようであり、パックにサイズ毎に椎茸を入れる仕草はガリ版の桝目を埋めるようでもありました。
あの巨大なハウスに一人で作り立ち向う姿は農業の現実を私たちに実感させるものでした。
3月に退院した時、「無理しても本屋までは行くんやよ。それも“おかずの作り方”って本なんよ」。ときゑさんの言葉の陰に、君ははにかんでいました。療養のために、自分のために食事を作る。家族の温かい心に何とか応えようとしたのでしょう。
「もう少しお前を可愛がればよかった。子供達とも、もっと遊べばよかった。」と、12月になって君はそう言ったそうですね。
本当に最後になりました。どうしょうもありません。しかし君は彼岸に渡り、宇宙のエネルギーとなって、ときゑさん・二人の子どもさん、そして君の周りで雑々に集まって来た方々を見守って下さい。
若くして旅立った曽我正幸君 さようなら
平成16年1月4日 友人代表 鷲見隆夫