6月の「郡上一揆」

1697年(元禄10)6月11日
   金森頼とき(28歳)が、八幡城主になる。 (=頼錦の祖父) 
   高山から出羽上ノ山へ左遷、5年で又郡上へ。

1754年(宝暦4)6月中旬
   黒崎佐一右衛門(プロの検地役人)が郡上へ入る。
   検見取り実施のために郡内巡見を始める。

1757年(宝暦7)6月3日
   駕籠訴人の切立村喜四郎・前谷村定次郎が連盟で回状を廻す。  
   “寝者は大敵、挨拶も(しては)ならぬ”

1757年(宝暦7)6月21日〜28日
   割当金集まる。なんと1160両。
   郡内3筋の帳元たち30余人が高鷲村の鮎走に持寄る。
   徴収金1160両と銭385貫が集まる。
   この月、庄屋をはじめ立者への仲間入りが急増する。

1758年(宝暦8)6月21日
   石徹白の社人が箱訴 

1763年(宝暦13)6月6日
   金森頼錦(50歳)、南部藩(岩手県盛岡市)で病死。
 
  腰や腹・足に浮腫ができ、5月下旬より病状が悪化していた。
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