たにざわゆきお(谷澤幸男)氏葬儀

                      2003年10月8日 長敬寺にて 
たにざわゆきおさん(72)葬儀:友人達による弔辞
 
下牧穂積郡上郡文化協会長弔辞: PTA会長時代から付き合う。朝潮太郎写真のこと。17回の
郡展の基礎を作る。郷土文化誌「郡上」を昭和46年に発刊。郡上寄席を始める。 

 和田昌三八幡町文化協会長弔辞: 十和田操賞創設、芸能祭開始、1981年副会長12年間、
会長8年間、顧問7年間、後を継いだ私ですがはるかにあなたに及びません。会報「べんがら
格子」。映画「郡上一揆」には鶴の一声で。

 高田英太郎・郷土文化誌「郡上」編集部: 雨が降ったら晴になる。当たり前のことに驚く。
昔、マフラーをつけ颯爽とあいさつする君の姿が忘れられない。驚きだった。、八小百年誌編集、
二科展(写真)入選、郡上紬を全国へ、「郡上」は10回に、大寄席は30回に、町つくり、環境、古典
「徒然草」「平家物語」など読む会など12を越えるサークルに。同人誌「幹」2回発行。
知識人は異議申し立て人たれ(フランスの諺)の心意気を君は持ち続けた。

 伊藤一巳友人弔辞: 君の中坪の家を訪れる。山法師の実がなり、木犀の香りがして、ススキの
下にベンチが。奥へ入ると、そうき柿が青い朱、今は何が起こったのか私にはまだわからない。
柿はポケットにいれた。もう少し落ち着いた頃の日にこれを食べよう。いつか前のあるとき、君の
家を訪れたとき、君が妻の幸代さんにトーストを焼いてあげていた、体の不自由な幸代さんはジャ
ムをつけ食べる、笑って君はそれを見ている、妻を亡くした私にはとても羨ましい光景でした。
君には野花の紫式部を送ろう。
「人生は劇場だ」(シェークスピア)、演出は自分で、あなたの行跡・人生行路を辿ります。

水野隆弔辞: 一人一人の持ち合わすそれ(きらめき)を、うまく誘い合わせ大きな大きな宴へと
作り上げていく、あなたはそれが出来る人でした。ふるさと“ぐじょう”を一つの美しいるつぼへと。
ある夜、新町の暗い街角の片隅で芸術議論をした後、私が「それじゃー、(谷澤さん)あなた、何か
をしなさいよ」と言いました。その後、彼がしたこと、郷土文化誌「郡上」の創刊でした。
  
弔句    「木犀の 香にのり逝かれし 人の声」 (日下部喜典)
       「忽然と 発たれし後の 月明かり」   (黒田杏子) 
       「大花野 急に翳れる 寂しさよ」     (水野 隆)          

                                     式場の長敬寺の境内でのメモより
                                        2003年10月8日夜、川上朝史
                                      (取留めない記述をお許しください)

              数年前、一度だけ喧嘩したけど、何と5分後には二人が謝り合いました。
             たにざわさんは物事への反応が早くてスローな私とは好対照でしたが、
             なぜか私のどこかを気に入られて、私をずっと引き立ててくださいました。
             最後は、同人誌「幹」2号でした。山内一豊夫人顕彰会と父の思い出を書く
             よう、谷沢さんから勧められ書きました。亡くなられる9日前、きく本で「幹」
             出版会でそのことへのお礼を最後に述べたばかりでした。勘違いで私を伝吉
             長男としたことを詫びられたので、私はむしろ嬉しかったと執り成しました。
             城山の銅像には二人の命が込められているからです。不世出の郡上文化人・
             谷沢幸男さんのご冥福を心より願わずにはおられません。    朝史
                                      
11時、職人町の長敬寺で。
導師 安楽寺(中桐)様により執り行われた。
写真のお顔が悲しいです。
本当に大勢のお参りでした。焼香の列がずっと続きました。
長敬寺の山門の下。
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