「一豊公紀」にみる種崎磔刑のこと
〔御武功記〕 (慶長6年)三月朔日、浦戸の内桂浜において相撲催され国中の上下を集め給う。見物のうち、一揆徒党の者73人を捕へ種崎の渚に磔に掛けらる。此の外、悪党ども御刑罰、御国中平均なり。
此の時、多和市十郎という侍、故ありて御追放。右相撲の時、(長宗我部)元親の根城、長岡郡八幡村の麓、名主一人相撲見物にも出ず、あまつさえ、用心の気色後日に顕われ、小原助三郎・谷川七左衛門に仰せ付けられ是又磔に掛けらる。右御成敗仰せ付けられし者共の一族残らず山籠り仕る旨御耳に達し、同年11月浦戸より西黒田勘右衛門・竹島伝次に仰せ付けられ山籠り仕る者、悉く御赦免、前体の通り帰服仕るとの事なり。
〔旧記〕 土佐国群書類従51所収
元親卿の時代戦場の役に罷りあり候一両具足の者共、御気懸り思しめさせらるに付き、御国中へ御回文遊ばされ、趣は御前相撲御上覧遊ばされ候間、西は宿毛、東は甲浦、其の外山分名主、残らず罷り出で見物仕るべく候旨、仰せ出だされ、桂浜に於いて同三月上旬に大相撲有り。御老中初家中若輩の者共罷り出で取るなり。之に依り多和平十郎と申す侍、御追放、子細有り。
〔御国年代記〕
慶長六年辛丑三月一日、御入国の御祝、桂浜にて角力興行。
※ 小説・ドラマと見比べました。
下に読み下し文。違いが分かります。
2006年11月27日掲載
三月朔日、角觝(かくてい=相撲)を桂浜におこない、士民をして縦覧せしめ来衆を検かくして叛党七十三人を逮捕し之を尋ねて磔刑に処せしむ。