岐阜県歴史資料保存協会「濃飛史艸」第90号 平成18年10月20日発行
川 上 朝 史 (当協会会員)
今年のNHK大河ドラマは「功名が辻」(原作:司馬遼太郎)です。
主人公は山内一豊とその妻・千代で400年昔の戦国時代の話です。夫と妻が協力し合い
20万石の土佐の領主となった勝ち組物語です。
特徴は、夫よりも“その妻”の活躍が取りざたされることです。
一番有名なのは“へそくり”で一豊に名馬を買わせ出世の糸口をつかんだ話。
次に有名なのは、関が原の合戦前夜の妻から夫への傘の緒の密書の話です。一豊の家康への
忠誠を一層際立たせる演出を彼女が密書にしたためたというのです。
江戸の中ごろには既に夫人の風評が本の中に出てきます。
明治・大正・昭和の国定教科書に名馬を買う話が載り日本中が二人を知ります。
戦後は、昭和38年(1963)司馬遼太郎氏が「功名が辻」を連載し始めます。
明るい聡明な妻が話題となり千代は内助の功の代名詞・婦人の鑑となります。
ところが、土佐藩では実子のない「その妻」の名が死後に消され始めたのです。
山内家が幕府へ出した系図にも後年、突如、近江出身の妻が出てきます。そして、
今では実際の名も千代なのかマツなのかわからぬ謎の女性なのです。
近年、美濃郡上の遠藤盛数の娘とする説の研究が郡上・高知で進みました。新しい事実もいくつか出てきました。そして、史料のあいまいな近江説から一転、郡上説が極めて有力といわれます。
ドラマの千代役・仲間由紀恵さんも注目を浴び高視聴率を維持しています。今日はそのホットなお話をいたしましょう。
写真@郡上の系図(慈恩禅寺蔵・郡上八幡)
その1は、千代の兄・遠藤慶隆の建てた郡上八幡の慈恩禅寺に残る系図です。遠藤盛数の女(娘)が山内対馬守御室と書かれたものです。岐阜県内や郡上には他にもいくつか系図があり、ほぼブレはありません。
写真A土佐の系図(高知県立図書館蔵)
その2は、高知県立女子大学名誉教授だった故丸山和雄氏が写した写真です。遠藤三十郎は見性院の2番目の兄・遠藤慶胤の末子です。元和3年(1617)12月に見性院が京都で死去します。その一ヵ月後の一月に三十郎は江戸で土佐藩に召抱えられました。
“御由緒を以って”と記され、明らかに実子がない見性院からの遺言です。その三十郎の子孫が藩に出した系図は見事に郡上とぴったりです。
“遠藤盛数の娘で慶隆・慶胤妹は山内対馬守御室”とありました。
見つけたときの丸山先生の手紙には、こう書かれていました。
「時間と空間を遠く隔てた郡上の系図との一致に驚きと感激が・・」
郡上の運動に一気に弾みがつき銅像建設の気運が高まりました。
写真B陣立て(長浜城歴史博物館蔵)
その3は、秀吉の戦のときの陣立てでした。
3番グループです。千代の夫・山内伊右衛門(一豊)がいました。
隣は千代の次兄(遠藤慶胤)嫁の家の佐藤六左衛門(美濃市)です。
次は千代の従兄の遠藤大隈守(胤基・郡上の遠藤本家)です。
そして最後は千代の長兄・遠藤左馬助(慶隆)、郡上八幡城主です。
強い血縁で一団を形成しているとすぐ分かります。
実は、山内・遠藤・佐藤の親戚軍団の陣立ては他にも前からあったのです。
秀吉の「小牧長久手戦の陣立て」(天正12年)でしたが実物でない活字でした。
この日「一豊&千代サミット」がありながら展示もされぬ長浜城内で、職員が出してくれた巻物を一人震える興奮を抑えて写真を撮りました。(富山の佐々成政攻め・天正13年)
私の心の奥隅の微かな郡上説への疑念が完全に拭い去られた瞬間でした。
(実は、これを見つけたのは郡上探訪の旅の帰りの土佐史談会御一行でした。)
写真C古今伝授の里
その4は、山内家に伝わる古今和歌集です。
「古今和歌集 巻第二十」(高野切本)をといい国内最古の写本で国宝です。
一昨年、高知県がこの「古今和歌集」を7億円で買いました。
(県の依頼鑑定では9億6800万円、平成8年の国の評価は12億円でした)
これが高知県で大きな話題になりました。
(他に36000点の山内家の宝物は無償で高知県に渡されました。)
山内家は江戸時代にも将軍家へ他の「古今和歌集」を献上していました。
その中には、なんと、郡上の領主“東常縁”直筆の古今和歌集が含まれていたのです。
彼こそ古今和歌集研究の第一人者、宗祇に古今伝授したあの人です。
なぜ、土佐の山内家に国宝や郡上の東常縁の「古今和歌集」があったのか。
山内家の記録を調べてもこれらが他所から入ったと言う記録は一切ありません。
ただ一ヵ所にのみ、その「古今和歌集」の名が出て来るのです。
それは、見性院(千代)が2代目藩主の山内忠義に残した形見の品の中なのです。
「古今和歌集」「徒然草」は妙心寺の湘南和尚から忠義に渡されました。
(この湘南は見性院が赤子より10歳になるまで養育した“お拾”です。)
山内家でも「古今和歌集」は見性院から来たものといわれます。
では、なぜ千代はそのような「古今和歌集」を手に出来たのでしょう。
実はその謎を解く鍵は、「千代の母」(法名:友順尼)にあるのです。
母は初代郡上八幡城主となる遠藤盛数の妻です。
彼女の父・東常慶こそ、13代目郡上の領主で11代東常縁の子孫です。
彼女は盛数と結婚後5人の子供をなします。
盛数は永禄2年(1559)彼女の父・東常慶を滅ぼすのです。
その盛数も信長と斉藤龍興との戦いで永禄4年森部で大怪我をします。
そして翌年、斉藤龍興の稲葉山城下(岐阜)で家族の見守る中で死にます。
未亡人となった母は龍興の伯父の永井隼人と再婚を余儀なくされます。
隼人は織田信長と徹底抗戦し近江浅井氏へ流れ遂には戦死します。
幼い千代はこの母と共に流浪をしたのではないでしょうか。
親戚の北方・安東家、また竹中・不破氏あたりに潜伏成長したと考えられます。
(安東家は一豊の姉・通が嫁いでいました。)
こうして山内家の「古今和歌集」は母を通じて千代に渡ったと考えることができるのです。
最後に、千代の母は、永井隼人の死後、生まれた郡上に戻ります。
そこへ信長から追われて郡上で3年間隠棲した本願寺の教如上人と会います。
彼に発心して「照用院釈友順」と法名をもらいます。
天正10年、東家遠藤家菩提寺の乗性寺で亡くなります。
また、一豊、千代、二人とも過去を語らない謎の期間が12年間あります。
お互いの父親が信長の敵だったからです。
以上、今回は4つの面から千代の郡上の遠藤氏説を展開してみました。
(本会会員、山内一豊夫人顕彰会会長)
※ 会のホームページは「山内一豊の妻」で検索し、御覧になれます。(川上)
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