「うす色のささんくわ(山茶花)とさ(土佐)にあるよし・・」(見性院=一豊夫人の気性)

1年も前に、高知のある方から質問を受けました。
これは、見性院の手紙の中での話です。二代藩主の山内忠義(見性院の義理の子供)に送った手紙で、秀吉の妻・おねから「土佐にはうす色(薄紫)の山茶花があるのか」と手紙で聞かれ、これに対し見性院は忠義に対し詳しく返事をくれるよう言いつけた手紙です。しかも、このことを「公儀のこと」と心得てけっして返事を忘れるなと、少年の藩主・忠義を叱るような勢いなのです。
このことを先代の18代・山内豊秋様は「掛川から土佐へ」(189ページ)の中でこう書いておられますから御紹介します。

○ 藩主忠義を叱る

「…うす色のささんくわ(山茶花)とさにあるよしきかせられ候まゝ、としう(土州)に申候てくれ候へとのぎょい(御意)にて候つる程に、そもじ御上り候はば此よし申候てあけ(上げ)まいらせ候はんと申候つるまゝ、御返事にくはしくうけ給候由候。すなはち、その文、政所さまへ御めにかけ申へく候。
 卯月十四日めてたくかしく
 けんしょう院より
 とさ殿まいる申給へ
なをなを、もはやいまははつき申ましく候まゝ、あき(秋)かよく御いり候はんと思ひまいらせ候。
こうぎ(公儀)の事にて候まゝ、御しちねん(失念)なきやうに、かならす秋しんせられ候へく候。まん所さまよりの御文まいらせ候まま御覧候へく候 かしく」

文面から忠義宛と判断され、忠義土佐守叙任は慶長15年であり、北ノ政所を公儀と目するは大坂落城迄と思われるので、この間の事と田岡さん(山内家の研究員の方:川上の注)は記して居られます。
又此の頃の見性院の一面を語るものとして、少年藩主忠義に対し、その無沙汰について教示と言わんよりは叱責ともいうべき強烈な手紙を送っている事が有名です。年少とはいえ甥に当る藩主です。夫人の遠慮せぬ気概と、小さい時から吾が子として育てた親密さが伺われます。「さてさて・・・・ (以下略)    山内豊秋 著 「掛川から土佐へ」より   

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