見性院(一豊の室)が死んだ1617年12月のひと月後に、甥の遠藤三十郎(安右衛門・亮胤=すけたね)が江戸で御由緒を以て土佐藩に召抱えられました。一豊との間にあとを継ぐ実子がなく、一豊の弟の康豊の子・忠義(2代藩主となる)を養子にしていました。京都にいる自分が死ねば、生家・郡上の遠藤家との関係が一切なくなると思った彼女は、2番目の兄・遠藤慶胤末子・三十郎を土佐藩に召抱えてくれるよう忠義に頼んだようです。2代藩主の忠義は、養い親の見性院の言い付け通り、ひと月後(1618年1月)に江戸で三十郎を200石にて召抱えました。今もその末裔が土佐に住んでみえます。三十郎については、京都で彼女が既に身の回りに彼を置いていたなど、十分に彼を知っていたうえでのことでしょう。三十郎が出した系譜は、安政年間に養子となった遠藤三作が藩に提出した『御侍中先祖系図帖』(高知県立図書館蔵)の中に連綿と受け継がれていました。今から約390年も前の、見性院の『深慮遠謀』が、一時期あいまいにされた彼女の出自をも、再び見事に蘇えらせた、と考えています。
「名馬とへそくり」「笠の緒の密書」、この二本柱で夫・一豊を土佐一国の主に昇らせ、賢妻・内助の功≠彼女の代名詞としました。ここに、もう二本、見性院は自らの『謎の出自』を解き明かす、土佐藩伝来『古今和歌集』甥『遠藤三十郎』という柱を今から390年前に築いていたようです。改めて彼女に感服いたします。
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山内一豊の妻 見性院の深慮遠謀と甥の遠藤三十郎
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