牛山町に住む人たちにとって、「牛山」と言う地名の由来についてはたいへん興味のあるところではないでしょうか。記録や伝説などこれが「牛山」という地名の由来であると言う確たるものはありませんが、「春日井市史」には、次のように記されています。
大化改新の際の地方行政区画は国郡里に分かれており、一里は五〇戸、二〇里以上になれば分って二郡とし、二〇里未満一六里以上を大郡、一二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とした。この里はのち郷と改称されるようになった。一里は五〇戸という場合の戸は、いわゆる郷戸であり、単婚家族的な房戸の複合されたものである。従ってこの場合の一戸は二、三〇人から一〇〇人以上もの家族員を含んでいることはいうまでもない。 また、上記市史の中で古来牛山に有ったと伝えられている片山神社の説明の中にも次のような記述があります。
延喜式内社であり所在地不明ながら、恐らく牛山にあったらしいとされるものに、片山神社がある。本国神名帳には、従三位片山天神とあり、本国神名帳集説には、片山は牛山の誤字であるという。尾張地名考には、これらの点についての諸説を紹介している。すなわち滝川弘美の説によれば、古くは内山と呼んだのであり、いま牛山と呼ぶのは内山の転語で、戦国時代以降のことに属する。和名抄にみえる山村郷は、この内山、外山一帯を呼んだらしいとされる。地名考の著者津田正生は、この見解を支持し、いまの牛山、外山、青山、板場、一之久田、小針村などは、すべて山村郷の範囲であろうとしている。なおこの神社に関する古老口碑として、牛山村は古くは宇多須村と称し、うち片山に大社が鎮座していた。元亀年間、この神社の守護人玄殿という者がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書等や玄殿の家屋も焼失、かれの子孫のことも一切不明になってしまったというのを附記している。とにかく片山が牛山に転訛したというのは大体妥当な見解とおもわれ、従って牛山に延喜式内社片山神社が実在したと、一応認めておくべきであろう。
春日井市史に記された内容を要約すると、
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