なんと紛らわしい若宮女!

若宮喜助女(一豊の妻に仕立て上げられた人)と近江の若宮善介女=山内一豊の弟・康豊の妻(下段へ↓)
「秘笈録」(故・丸山和雄高知県立女子大学名誉教授より送られた史料写し) 1979年撮影
一右近様御道具之事、御馬印・軍配・御団御持、
頭の整理:山内一豊の弟は山内康豊。
山内康豊の御内室(妻)は近江の若宮善介の娘である。(「忠義公紀」では長井利直女)
山内康豊の子・山内忠義(二代藩主で山内一豊夫妻の養子)は
康豊と家女・水野氏との間の子である。
忠義の実母の水野氏女の法名は妙玖院である。
実は彼女の俗名が「千代」であることが分っている。
「忠義公紀」(第一編)の巻末の山内家略系図で、山内康豊の妻は長井利直女となっています。ところが、同じこの略系図に康豊のすぐ上の姉(米・一豊のすぐ下の妹)が長井利直の妻になったと書いてあります。少し変だと思いますが、どちらも、もう少し研究してみなければなりませんが、資料として載せておきます。
康豊:「忠義公紀」のはじめの続刊随想で山内豊秋さんが、次のように述べられています。

 康豊は、普通、一豊の弟修理亮をいうが、その長男忠義もこの名を世子に決まった頃の慶長9年から使用し、慶長15年3月1日に、秀忠から忠の字をもらって、忠義と改名するまで使っています。

 忠義の父の康豊は、自分の康豊を譲ったあと、忠豊を名乗り元和5年に三代の忠豊にこの名を譲った後、又もとの康豊に戻っています。

とまあ、ややこしいですね。豊秋さんも頭が痛かったことでしょう。
※ なお、18代・山内豊秋氏は、幼い忠義の実父・康豊を実質的な山内家二代、と言われます。
(山内一豊の妻)山内一豊夫人顕彰会へようこそ
忠義公御実父山内修理亮康豊公御内室
近江住人若宮善介娘
忠義公御実母家女水野氏之由法名妙玖院
水野之続、土州の在水野市右衛門、同栃平
大坂冬陣之時、浅野数誓覚書
鑓弐本、御長刀一振、御弓三張、御持筒三挺、御の
ほり九本、数鉄砲弐拾挺
一諸事御道具ハ村久右衛門預之
但無足
一御鉄砲頭横山弥次兵衛也